生きたい人が死を、死にたい人が生を強要される

生きたいと思っている人が亡くなる一方で、生きることの辛さから解放されたい人は無理やり生かそうとする。このアンマッチを人類はますます深めてしまっていると最近感じます。私はもちろん後者の立場なので、この「死にたい人が死ねない問題」について少し考えてみます。

 

生と死のアンマッチ

 

生きたいのに死ぬ問題

倫理の問題と言うよりも、科学と政治の問題ですね。

 

1. 身体疾患・不慮の事故

これが大半だと思います。社会の需要とマッチしているため、医療や科学の発展とともに状況は改善されていくでしょう。

2. 殺人・武力紛争・テロ

明確な加害者がいる問題です。2017年には全世界で殺人の犠牲者が50万人近くで、武力紛争による死者89,000人とテロ攻撃による死者19,000人を大きく凌駕しています*1。殺人の犠牲者は年4%程度で増加する一方で、武力紛争とテロの犠牲者は減少傾向でした。今年は上がりそうですが、今後どうなるでしょうか?

3. 死刑

日本でセンシティブなのはこの問題ですね。個人的には死刑を認める国や賛成する人が人倫を語るのは無理筋であると思います。およそ、「目には目を歯には歯を」「犯罪に対する抑止力になる」「被害者・遺族の癒やしとなる」「生かしておく価値がない」などが理由として挙げられるようです*2。いずれにせよ、人命を他の人命や社会的価値と天秤にかけて判断しており、自らの人間性を貶める哀しい考え方かなと感じています。そもそも、この問題を近しい人を凶悪犯罪で失った方々以外が、とやかく言う資格はあるとも思えません。

この件は本筋ではありませんし、書きすぎるほどに厄介となるのでここまでとします。死刑の是非については、もし気が向けば別の機会に書こうと思います。

 

死にたいのに生かされる問題

自殺の理由という観点からみると、見通しが良いでしょう。こちらはほぼ倫理の問題です。

 

1. 身体疾患

ALSなどの神経難病や末期癌のような、現在の医療ではもはや改善の見込みがない疾患をかかえる患者であっても、死を選ぶことは許されません。嘱託殺人はこの手の議論の鉄板ですね。安楽死はNGで尊厳死はOKだとか、制度を決めるお偉い方々の謎理論に振り回される患者が不憫でなりません。死刑はOKなのにね。

ちなみに、このあたりの用語の定義はざっくり以下の通りです。

  • 積極的安楽死:医療者が直接手を施して、患者の命を奪うこと
  • 消極的安楽死:死に至る手段を患者に提供し、患者が自らその手段を用いて死に至ること
  • 尊厳死:延命治療を控えて、患者の苦痛を緩和しながら死を待つこと

安楽死に関しても、後ほど取り扱おうかなと考えています。

2. 精神疾患

身体の病でも死を許されないくらいなのですから、心の病などもってのほかです。死にたい人は現状では自殺を選ぶしかありません。日本では15~39歳において自殺は死因ランキングで現在1位に位置しており*3、これは先進国で唯一だそうです。身体疾患ではそう死なない素晴らしい国と捉えるか、生きる意味そのものに悩む人が多い絶望の国と捉えるかは皆さん次第です。

3. その他

例えば、自分の子どもに臓器提供をしたいなどが挙げられましょう。そう多くはないと思います。

 

自殺が暗黙の選択肢である現状はデメリットしかない

 

さて、自殺願望に関しては「死にたいのに生かされる?勝手に自殺すればいいだろ甘えんな」などという批判が聞こえてきそうです。ですが、自殺は悪い面があまりにも大きく、勝手に自殺されるよりは「定められた手順によって人生を終了することの幇助」を法制度化する方が、本人にとってだけではなく周囲や社会にとっても好ましいのではないかと私は感じています。

 

本人の視点

自分自身を手に掛けることの恐怖と苦痛を必ず味わうことになります。ここまで散々つらい思いをしてきて、最期に最大の恐怖と苦痛を味わうことになるのはあまりに残酷です。(もうその頃には感覚が麻痺しているかもしれませんが…)

また、自殺は必ずしも成功するとは限らず、運悪く後遺症を持って生き延びてしまうと、この世はさらなる地獄と化します。完全な状態での社会復帰は極めて困難で、一生ついてまわることとなるでしょう。

 

周囲の視点

たとえ自殺に成功したとしても、周囲(特に家族)に与える悪影響は甚大です。精神的なダメージはもちろんですが、それに加えて親族を自殺で亡くしたことによる社会的機会の喪失も懸念されます。親はある意味本人が苦しむことになった間接的なきっかけとも言えるので置いとくにしても、兄弟姉妹は結婚などで相手方に躊躇される状況もありえますね。自殺の原因が親族ではない場合には、本人も後ろめたい思いを感じながら、旅立つことになります。ちなみに、自殺や精神疾患には家族歴が関係することはしばしば語られるところです*4

また、自殺者はその原因に関わらず、心が弱くて正しく対処できなかった人だなどと三者から死後も厳しい目でみられることとなるでしょう。皆さん公に遺族に向かって批判したりはそうしないと思いますが、ね。

おまけに、自殺は大抵の場合、その死に様は凄惨なものになりますね。最も簡単かつ完遂率の高い自殺の方法として知られる首吊りの場合では、糞便垂れ流し身体ドロドロ溶けまくり虫湧きまくりの地獄絵図というケースが考えられます。

というわけで、自殺はそれに至るまでの経緯やその後遺される人たちへの影響まで考慮すると、身体疾患による病死などに比べると、圧倒的に惨めで、その人の尊厳が保たれるとは言い難いですね

 

無責任な自殺否定に対して思うところ

もしこれまで同様に、自殺および自殺幇助を否定したいのであれば、それこそその人が完全に立ち直れるようになるまで、きちんと介入するべきです。しかし実際のところは、病院は治療費をきっちり取りますし、寛解してもその後の人生まで面倒見てくれません。治療がうまくいかず責任能力もないと判断されると、閉鎖病棟への長期入院を強制されたり、精神障害者として不自由な暮らしを強いられることになりえます。果たしてそれは自殺よりもマシで、尊厳がある状態と言えるのでしょうか?

自殺の否定を生業としている精神科医や心理士も、結局のところは一つの仕事にすぎないので、自分の生活に支障が出るほどのリスクを冒してまで患者に踏み込もうとする人はおよそいないでしょう。精神科は楽だからとか定時で帰れるからって理由で選ぶ医師が多いとは割と聞く話ですし、むしろ他の診療科よりも患者を助ける熱意や倫理観が欠如しているかもしれませんね(どこまで本当かはわかりません)。

自殺念慮を有する患者や自殺者の遺族と数多く関わっているわけでもないのに、文句ばかり言う学者や団体は殊更に酷いです。色々と理屈捏ねくり回して結局問題の解決策を何ら提示しないまま、命の価値は定量化できないとか議論がまだ足りないとか言って、今まさに苦しむ人を突き放す結論を肯定します。それどころか、政治家や医療者に圧力かけたりします。もはや加害者の域に片足突っ込んでます。もちろん、そういった方々が皆自分の私財の大半を投げ売ってまで活動しているというのであれば、お詫びして訂正しますが。

私も一時の気分による自殺幇助を認めるべきであるとは思いません。双極性障害躁状態で死ぬのは好ましくないです。しかし、きちんとメリット・デメリットについてある程度時間を取って落ち着いて考えた上で、それでもやはり今ここで人生を終えたいという強い意志のある人に対しては、可能な限り痛みのない方法で安らかに解放してあげる方が倫理的であると感じませんか?

 

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